テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
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「縁」

土岐市 清安寺 住職 大久保 厚志 師

春のお彼岸がやってきます。古くから「暑さ寒さも彼岸まで」といいますが、お彼岸は日本の伝統的な行事です。お寺やお墓にお参りし、脈々と伝わるご先祖さまの「おかげ」に手をあわせてください。また、ご自身の生活をみつめる仏道修行の期間としていただければと思います。

さて、春は出会いの季節とも言われます。様々な存在が関わり合うことを仏教では「縁」といいますが、その縁はその人の心掛け次第で、「善縁」にもなり「悪縁」にもなります。

折角結んだご縁であれば、善きご縁にしたいと思うのは誰しも共通なことと思います。

縁は自分で作り上げて行くもの。つながりをどう受け止め、どう行っていくかが大事です。

仏教でいう「善」とは、お釈迦様の教えに寄り添う生き方であります。「善」なる行いの積み重ねは、きっとご自身を清らかにし、周りの方にも良い影響を与えることと思います。教えに背を向けた「悪」の生き方をしないよう一人ひとりが「善縁」に包まれると同時に、周りへの発信源となれるようお祈り申し上げます。

「伝えつなぐこと」

美濃市 正林寺 住職 荒田 章観 師

2月15日はお釈迦様がお亡くなりになられた涅槃会となります。毎年各寺院では涅槃図をかけ、お釈迦様をご供養します。涅槃図を見ると横たわるお釈迦様の周りではお弟子様だけでなく、たくさんの動物たちも一緒に悲しんでいることが分かります。

お釈迦様が最後にお説きになられた教えが佛垂般涅槃略説教解経「ぶっしはつねはんりゃくせつきょうかいきょう」(佛遺教経「ぶつゆいきょうぎょう」)です。その中でお釈迦様は「私の教えは全て皆に授けた。これからは皆がその教えを伝えていく番だよ。そして、それが続く限り私はずっとそばで見守っているよ。だからそんなにも悲しまないでおくれ」とおっしゃられました。ご病気でご自身が苦しい中でも最後までお弟子様の行く末を案じておられたのです。

私が普段から大変お世話になっているご老僧に「自分が学んだことはできるだけ伝えるから、それを自分なりの形にして誰かに伝えてあげて」と教えられたことがあります。それは法要の作法であったり、お経の読み方であったり、お釈迦様や道元禅師様の教えの考え方であったりと、さまざまでした。なかなか上手にならない私のために根気強く何度でも教えていただきました。

師匠から弟子へ、また親から子へ。教え続け、伝え続けることが、お釈迦様が最後まで大事にされたことであり、今こうしてお話を聞いていただいた皆さんへのご縁へと続くものでもあります。伝えることの喜びをどうぞ大事にしていただきたいと思います。

 

「息の大切なことを意識せよ」

関市 宝泉寺 住職 花村 英映 師

先日読んだ本に『息を吸うときには、息を吸っている自分に気づこう 意識を集中させよう。吐いているときは、吐いている自分に気づこう。喜びを感じながら息をしよう。こころを感じつつ こころを静めて呼吸しよう。こころを安定させ こころを自由にときはなすように息をしよう。そして、無情を感じ生の消滅を感じ 自己を手放すことを意識しつつ呼吸しよう。』『呼吸をおろそかにして人生はない』『人生は、はいて生命が誕生し、すいこんで終わる』と書いてあった。

普段、ほとんど「息」のことについて意識したことがなかったが、それでも普通に生きていける。自律神経の働きで・・・などと理屈はわかっていても、一度意識すると、不思議な感じもする。息という字も普段、無意識のうちによく使っている気がする。「息が合う」「息を抜く」「息を潜める」「息が掛かる」「息が長い」など日々の出来事と密接に絡んでいる。息の大事さを意識している人は少なくなく、呼吸法は静かなブームになっているという。

息は「自」らの「心」と書くように、その時の心の状態を映すものだ、と説く。息を意識することで、心のありようを変えることもできるだろう。本には息をしていることを喜ぶ気持ちを持って過ごせたら〔もっと慈しむとか、愛するとか、そういうふうに生きる可能性がありますね〕とつづっている。いつからか、息苦しい世の中になったが、いい呼吸法とは、「吐く息はできるだけ深くゆっくり、なめらかに」と、息の大切さを意識したいものです。

「心を通わせる手段」

郡上市 悟竹院 住職 稲村隆元 師

いつ頃からなのか、横断歩道を渡る学生が止まった車に対して深くお辞儀をする光景をよく目にするようになりました。自分自身が学生の頃はなかった光景だと思います。その姿を見るたびに心が温かくなるのを感じます。「深くお辞儀をする」という行為ではなく、お礼をしている姿を嬉しく思うのだと感じています。

これは近年、見知らぬ人と挨拶を交わすということがあまり見なくなってきていたこともあるかもしれません。地元に来る観光客の方であると挨拶を返されると珍しすぎて逆に驚くほどです。しかし、この時も挨拶が返ってくるとどこか嬉しくなります。言葉がなくとも会釈が返ってくるだけでも同じです。

「挨拶」というのは元来仏教用語で、「一挨一拶」などといって師匠が弟子の修行の度合いを知るために声をかけることをいうのですが、僧侶に限らず挨拶を交わすことで、お互いに言葉以上に伝わるものがあることは誰しも感じるところではないでしょうか。普段からよく話す近所の方に挨拶をしたのに、俯き加減で声が小さかったとしたら、何かいつもと違って心配になります。逆にすごく晴れやかに満面の笑顔で挨拶されると、こちらも笑顔になるし良い事があったのかと感じます。当たり前のことではありますが、当たり前だからこそ大事にしたいと深くお辞儀をしてくれる学生を見るたび思います。

直接人とコミュニケーションを取ることが避けられがちな状況で、見知らぬ人に警戒心の高い時代でもあります。しかし、ちょっとだけいつもより広い範囲で挨拶をしてみると思わぬ笑顔に出会えるのではないでしょうか。

「人のふり見て我が振り直せ」

加茂郡 廣通寺 住職 尾関大介 師

先日、法事のため名古屋の高速道路を走っていたときのことです。私の右側の車線に猛スピードで白い乗用車が走りこんできました。その車の前にはトラックがいたため私の車のほぼ真横から突然左に車線変更をしてきました。左、つまり私の車がいる所です。慌ててブレーキを踏んで前に入れてあげました。それを気にした様子も無く、その車は更に前の軽自動車を煽りながらスピードを上げさせ、いわゆる名古屋走りをしながら走り去っていきました。

この時、実は少々面白い事に気がつきました。この煽り運転をしていた車なのですが、私の車のすぐ前に割り込んできたので、車の背面がよく見えました。そこには沢山のステッカーが貼ってあい、例えば「ドライブレコーダーで撮影しています」とか、「煽り運転反対!」とか、「専属の弁護士がいます」とか、そんな内容のステッカーがベタベタと貼ってありました。

この方は恐らく、自分自身こそが煽り運転の被害をよく受けていると思っているのではないでしょうか。しかし現実は皆さんもお気づきの通り、自分が煽った結果煽り返されているだけなのだと思います。

人のフリ見て我がフリ直せと申しますように、自分の事というのは実は案外分かりにくい物です。普段の生活の中で家族や友達、仕事相手にイライラしてしまった時、それは逆にチャンスだと考えてみて下さい。背筋を伸ばして深呼吸を二、三回、それだけで少し心が落ち着きます。そして自分がそんな感情に至った時のこと、そして自分自身の事をよく考えてみて下さい。思わぬ気づきがあるかもしれません。

 

 

「この時に遭ってこそ禅定~心を静めよう~」

曹洞宗岐阜県宗務所 所長 小島尚寛 師

新年あけましておめでとうございます。皆様の益々のご健勝をお慶び申し上げます。

日頃より、このテレホン法話をご拝聴いただき御礼申し上げます。

昨年をもって、宗務所長を退任する予定でございましたが、引き続きもう一期4年お務めさせて頂くこととなりました。今後ともご愛顧下さいますようお願いいたします。

昨年の暮れ、境内墓地の清掃をしている折、参詣者の方のお墓参り、墓石を洗い清め、生花を供え、線香を焚き、手を合わせる。ごくごく自然のお姿、しかしその時に漂う香の香りに、いつもと違う、こころ静まる時を得たような感がいたしました。

新型コロナ感染症による月日は3年が過ぎ、制限による閉塞感に苛まれ、知らず知らずに心の痛みを覚え、不安の中に生活しています。

六波羅蜜という教えに布施(与えること)、持戒(戒律を守ること)、忍辱(苦悩に耐え忍ぶこと)、精進(真実の道をたゆまず実践すること)、禅定(精神を統一し安定させること)、智慧(真実の智慧を得ること)、の六つの徳行があります。

こんな時であるからこそ、この六つの教えの一つ「禅定」ほんの一時であれ、心静かに落ち着く時間が必要ではないかと思われます。

積土成山、ひとつひとつの積み重ねがやがて大きな山となる。皆様の喩え小さくとも、そして僅かであれ、心に安らぎの時を求め、行い続けることがやがて自身の徳となり、明るい社会の未来に繋がる礎となることでありましょう。

そして新しき年に一歩を踏み出し、共に精進してまいりましょう。合掌。

「比べる心」

関市 千手院 住職 橋本絢也 師

私はお金がない。私は健康ではない。私は時間がない。私は搾取されたのだ。私は不幸なのだ。私はわたしはワタシハ…。ここにでてくる「私」とは一般的な私です。程度の差こそあれ、どなたの心のなかにも住んでいる「私」。

では一度考えてみましょう。「誰」と比べてお金がない、健康ではない、時間がない、不幸だ、等と感じるのでしょうか?お金のことはお金もちのAさんと比べる。健康の事はいつも溌剌としているBさんと比べる。時間の事は悠々自適なCさんと比べる。わざわざ「沢山持っている人」と私を比べているのではないでしょうか。偏ったサンプルとの比較は自分を良くも悪くも装わせます。その偏ったサンプルとの比較は執着を産み、渇愛を産むのです。

SNSやメディア等情報過多の現在、そういう「偏ったサンプル」が否が応でも目に飛び込んできてしまいます。さらに私たちはその偏ったサンプルが「良い物である」と錯覚させられているきらいもあります。

心身自らも愛すべし、自らも敬うべし。「他人との比較での私」ではなく、私そのものが行い選択してゆくその有様をつぶさに真摯に観察してみては如何でしょうか。

いかりに対して

下呂市 長福寺 住職 萼 弘道 師

仏教では「貪・瞋・痴」という心の働きを三毒といいます。

むさぼり、いかり、おろかさという私たちの心を害いやすい、煩悩の毒のことです。

中でも「瞋り」は、日々生活する中で最も日常茶飯事といえる良くない心の働きです。

前後の見境なく瞋りを爆発させれば、後で悔やむことになるでしょう。

しかし、そのことが分かっていたとしても、つい腹を立ててしまうものです。

ですが、腹立ちに耐えて瞋りをやりすごすことができると、そのあとで「ああ、怒らなくて良かった」と胸を撫でることになります。

以前、ある男性の方と意見の食い違いから言い合いになってしまったことがあります。

話していくうちに段々とヒートアップして、その方は見るからにご立腹されているようでした。私もそれに応ずるように腹が立ってしまいましたが、これでは話し合いが終わったとしても、良い結果にはならないだろうと思い、瞋りの感情を抑え、まずその方の話を全て聞くことにしました。

すると、憤怒の表情だったその男性も徐々に落ちつきを取り戻し、最終的には穏やかに話し合いを終えることができました。

その時に、自分も瞋りに身を任せなくて「ああ良かった」と思いました。

自分が瞋れば、相手も瞋る。周りも良い思いがしません。

瞋りが生まれた時は、腹を立てている自分と、それを抑えようとする自分を意識することが大切です。その時は、もう一人の穏やかな自分を思い浮かべてください。

 

「うちの飼い猫」

本巣市 悟春院 住職 戸田和雄 師

今我が家に一疋の猫が住んでおります。ちょうど六年程前息子が猫を

欲しいと言い出したので保健所に電話して貰って来ました。

小猫が二疋居ると言う中、実際は一疋しか居りませんでした。生後二~三ヶ月ぐらいの小猫で檻に入ってじっとこちらを眺めておりました。やがて家に連れて来て一日目、二日目は食事をしないでいましたが、

やがて自分から食べ始めました。その猫も亡き母の部屋に住み着いて

おります。今は猫自体もこの家に慣れて来て大事な家族の一員として

暮らしております。

毎日外に出て何時間か帰って来ない事があります。恐らく自分の縄張りを回って帰ってくるのでしょう。帰って来ると自分の部屋の外で

ニャンニャンと鳴き、その鳴き声でドアーを開け部屋の中へ入れてやります。部屋に入ると、寛いでおります。

人は地球上で、自分だけの世界ではなく地球上で暮らしている我々の身近な犬や猫や又この自然界に住んでいる動物達それが野性であっても野性でなくても生きる権利があり、人間界と同等な生存すべき権利を

持っているものと思います。

その自然界と同等な権利はわが宗派の禅の道坐禅の道と同じだと思います。

地球上の万物は人間だけでなく伴に生きる仲間と思い同等に時間を

費やすかけがえの無い社会の仲間として手を携えるべきと思います。北海道に住む羆でも身近な山野に生息している亀や狸や狐でも山の烏でも併に共存して生きて行こうと思います。

「今の自分を作ってくれたのはだれか」

揖斐郡 法幢寺 住職 赤田賢了 師

境内のイチョウもきれいな金色に色づくこの季節になると、私は、数年前に亡くなった親友のことを思い出します。その友人とは、中学、高校、大学、大人になっても「あかさん」「なっさん」と呼び合い、いろんな場所で楽しい時間を過ごしました。

彼と少しでも一緒にいたくて同じ塾に通い、そのおかげで志望の高校にも合格することができました。彼の周りに集まる友人達とも仲良くなり、今でも親友と呼べる多くの友達ができました。彼の紹介のおかげで今の家内とも結婚することができました。

彼と親友達と過ごした時間は、今でも、「あの頃は楽しかった。」と思い返すような時間の連続でした。彼は、私にとって特別な存在でした。

しかし、互いに家庭をもち、私が岐阜に住むようになってからは、年に数度しか会えなくなりました。そんな折に、彼が急に亡くなったことを聞きました。お葬式での、最後の別れの時には、「また、会おう」と声をかけて見送りました。

禅語の中に「生我者父母 成我者朋友」(われをうみしものはふぼ われをなせしものはほうゆう)という言葉があります。「この世に送り出してくれてのは両親だが、私の事を理解し、私を私としてくれたのは友人だ。」という意味です。

彼は、私にとってまさに、この禅語の言葉どおりの友人でした。今の自分を作ってくれたのは彼の存在が大きかったと思います。彼と出会えたことに本当に感謝しています。

日々いろいろな事があり忙しい毎日、個人の考えが尊重される時代ですが、みなさんと縁のある人との関係を見つめていただき、「今の自分を作ってくれた人」の気持ちや思いを想像し、感謝するだけでなく、「今の自分を支えてくれている人」への感謝の気持ちもって過ごして下さい。

そして、皆さんも誰かにとっての特別な存在になってください。