テレフォン法話

曹洞宗岐阜宗務所では電話による法話の発信を行っています。
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毎日お参りに来られるお年寄り

各務原市 宝林寺 住職 石屋 義弘

寺庭のなかで作務をして居りますと、ほぼ毎日お参りにこられるお年寄りがおいでになられます。ゆっくりゆっくりと参道を歩き本堂の戸を開け正面の経机の前に座り、りんを二つ鳴らし、手を合わせて祈り、さいせんを入れて行かれます。その静かな姿は寺の観世音菩薩に全てをまかせてお参りをされて居るようです。それを終えると寺の境内地に有る、秋葉神社と稲荷神社にゆっくりとお参りになり境内地を一廻りされるようにしてお帰りになります。

そうその一時あのお年寄りには、さとりきった状態になっておいでになっていたのではないでしょうか。仏前に座り座禅をするのではなく、経の一巻も読まれる訳ではないのですが、その静かな顔は全く安心のゆったりした姿でした。お釈迦様が示された細いさとりの道と道とをはずれないように、世俗にたらしおかれたくもの糸の登り方をおしえと下さった道元禅師様の深い心を思い欲望をコントロールできる人間になれ、そうすると自由になれるということです。そして有能ですなお、端正であれ、恵い言葉を語って、いつも優しく、心に笑みををもち決していばらのない、そんな人間になれと慈しみ教え下さっているのです。

誠につたないお話を聞いていただきありがとうございました。

自灯明・法灯明

各務原市 桃春院 住職 清水 宗元

お釈迦様は亡くなる前、「これから何を頼りに生きていけばいいのでしょう」と嘆き悲しむ弟子に、

「自らを灯明とし自らを頼りとして,他を頼りとせず,法を灯明とし,法を頼りとして,他のものをよりどころにせずあれ」と語られたといいます。

「自灯明,法灯明」の教えとして有名な言葉です。「灯明」とは,あかり,ともしびのことです。

とかく私達は、人のことに左右されがちです。特に近年は,高度情報化社会になり,情報が 溢れかえる中で,「TVでいってたから。人気番組でいってたから」,などとまちがった情報を鵜飲みにしてしまい、結果「だまされた」気持ちになってしまったなどというもよく聞く話です。

また先行きの不安な情勢で、「勝ち馬に乗る」,大きい方、強い方についた方が安心という心のもと,権威・権力のある人の言葉に安易に追随する,そういう風潮もあるような気がします。

 そしてまた、こちらも思うような利益を得ることができず、「だまされた」という気持ちになってしまったというのもよく聞く話です。

 結局は人の言葉を鵜飲みにして頼るのではなく、自分で考え自分で何が正しいかと見定めること、そしてそれができる自分を確立していくことが大切なのです。

 それとお釈迦様は、「自灯明」と同時に「法灯明」とも教えられています。

 「法」とは,仏教の教え,すなわち物事の真理,本質の事です。

 仏教を学ぶこと,物事の真理,本質を学び知ることが、あやまった情報や間違った言葉におどらされず、自分の考えで正しく物事を見定められる,そういう自分を確立していく,そういう事を教えられています。

 情報が 溢れかえる現代社会,そして権威や権力のある人の言葉に安易に追随する風潮がある現代社会だからこそ

「自灯明・法灯明」

 お釈迦様の最後の言葉をかみしめたいものだと思います。

「少欲」の教え

高山市 正雲寺 住職 近藤元隆

このところ巷では、「エコ エコ」とよく耳にいたします。エコバッグ、エコ減税、エコポイント、これだけ毎日毎日耳にしていると、一体エコとは何ぞや?という疑問が湧いてきたりします。「環境を表すエコロジーと経済を表すエコノミー」を合わせた言葉なのだそうですが、まず頭に浮かぶのは、あふれるほどの物を造りながら、一方で節約ブームと謳っている矛盾点に疑問が湧いてきます。自分の周りをよく見渡してみて下さい。案外必要の無いものに囲まれて生活していることに気が付いたりもします。

確かに地球の環境を守り、無駄を無くすのは素晴らしい考え方です。個人で出来ることは限られていますが、一人一人が意識を持つことで、世の中はゆっくりと変化を遂げていきます。

仏教の教えに「少欲」という言葉があります。お釈迦様は「欲望というものは、満たせば必ず次の欲望を生む」これが人間の迷いの根幹であると指摘されました。しかし一方では欲望を満たすのがいけないとは申されてはいません。欲望というものは、絶えず危険性を伴うものであることを知り、その制御を学びなさいということを教えられています。

何かにつけて闇雲にエコを唱える前に、まず日常からこの欲をコントロールすることが大事だという「少欲」の教えを意識して生活することこそ、本当のエコに繋がるのではないでしょうか。今一度、考えてはいかがでしょう。

仏に祈る

高山市 大隆寺住職   中井 滕岳

私達宗門は、必ずご祈祷の法要から始まります。最高最尊の釈尊とその教えの法、そして

この大宇宙にうごめくエネルギーを仏教では、報身仏と云って仏様と仰ぎ見て供養致します。

その功徳力を願って、どうか「国土安穏、万邦和楽」と祈念するので有ります。即ち、毎年

地震や風水害などの自然災害で多くの被災者が大変な目に遭っています、そして、きょう

明日に起きるかも知れない最大級の東南海地震が予測されていながら、科学や人の力では

どうすることも出来ない、ただひたすらに穏やかで有って欲しいと、全てがかなわぬとも、

心を込めて祈らずにはおれないのでありませんか。

ところで、自然界や人間社会は常に著しく変化をしています、その中で現代知識人の多くは

神や仏はいないといいながら、自らの命に関わる様なハットした時、思わず手を合わせた事が

有りませんか,或いは身近な方が病気になられた時、心の中で祈る事が有りましょう。その時

何に向かって祈っているのでしょうか、測り知れない大宇宙のうごめくエネルギーを感知して

その精神的心の中にあるものを仏と信じて祈るのです。科学では割り切れない不思議な現象

それが宗教の世界なのです。ぜひ、貴方も本尊様を通して真剣に念じ祈ってみては如何か。

思い悩む様な問題が生じた時など、必ず自ずと応えが返ってきて、大安心が得られるので

あります。

「良い香りのする生活」

高山市 雲龍寺 副住職 亀山 和浩

薫習という教えがあります。薫に習うと書いて薫習です。良い香りであれ嫌な香りであれ、しばらくそこに居ると香りというものは体や衣服に染み移ります。そのように香りがいろいろなものに染みて移っていくのと同じように、人の心や行いというのもまた染み移っていくものであるという教えです。確かにこの人はいつも穏やかだから近くにいると自分もなんだか穏やかな気持ちになる、この人はいつもニコニコしているから自分もなんだかニコニコしている気がするなんてことはありませんか?逆にこの人は、いつもイライラしているから自分までイライラしてしまうなんてこともあります。私は週に1.2度、先輩や同級生とチームを作ってバレーボールをしています。そのメンバーの中にとても一生懸命で、プレーも上手なコーチのような先輩がいらっしゃいます。その先輩は、練習中からとにかくよく声を出して、私が良くないプレーをすれば「もっと集中しないとダメだ」、とか「最後まで諦めるな、足を出せ」と叱咤してくれます。そうすると、そう言われないようにもっと頑張ろうと思います。また逆に良いプレーをすれば、「ナイススパイクだ」とか「失敗したけど良いプレーだったぞ」と褒めてくださいます。そうするとより一層頑張ろうという気持ちになります。私だけでなく、誰に対してもそういう風なので、自然と皆もたくさん声が出るようになり、チームの雰囲気が良くなって一体感が生まれ、足も出るようになり良いプレーも沢山出るようになります。その先輩の一生懸命な姿、香りが、チームのメンバーに染み移っていく、まさにこれが薫習なのかなと思いながらプレーをしています。皆様の周りにもそのような方はいらっしゃいませんでしょうか?そういった良い香りを感じながら、また自分自身も良い香りを周りの人たちに移してあげられる生き方、生活をしたいものです。

愛心愛語

高山市 善応寺 住職 中井光博

平生の暮らしの中で、人に接する時、不用意な言葉や態度で接してしまう事があります。そういう言葉や態度は、人を傷付けてしまう事があるにもかかわらず、自分では気付かずに相手に対して、辛い苦しみを味合わせてしまいます。

些細な事で怒りや憤怒の相を表し、人を傷付ける事に対してお釈迦様は、「怒りに対して心を制御する事を精進する事が智慧を磨き、悟りに近づく」と言われております。

心無き不用意な言葉や、憤怒の相で他に接する事は、相手を傷付けると共に、自分自身の心を曇らせ、仏道修行とはかけ離れた、戒律をも疎かにする事となります。

私達は出来れば、常に愛情のこもった言葉、親切な言葉や態度を心掛けたいものです。

自分に徳となりそうな人には上手を言い、そうでない人には心無い言葉や態度で接する。自分より下とみれば馬鹿にしたり、あざけり、さげすんだりする事もあります。

出来れば、どんな方にも同じような態度で、優しき慈愛の心を起こして接したいものです。

道元禅師は「愛語は愛心より起こる。愛心は慈しむ心を種とせり」とおっしゃっております。

私達も日頃から自分の言葉や態度を、よくよく考え、慈しみの心を元とするような、自分も他人も共に心安らかになるような言葉を使い、また、そのような態度で人に接していきたいものです。

四月になり、私の暮らす飛騨高山もようやく春めいてまいりました。

春は、新たな気持ちでの出発の時期です。

そんな春に、気持ち良く愛心愛語の心で人に接していきたいものです。

新入学、新社会人の皆様へ

高山市 久昌寺 住職 新村 雅芳

新年度を迎えて、新しく進学される方、仕事に就かれる方がお見えになるでしょう。新たに気持ちを切り替えて、希望に心を輝かせ期待を持ち邁進されている事でしょう。否、反対に進んだ道の選択に疑問を感じている方も見えるでしょう。友達や先生、同僚や上司の人間関係に悩み、思い描いていた学校生活、職場環境には程遠く、家族や友人に相談すれば、世の中そんな甘いものじゃないと、叱咤激励され辛抱しなさいと諭される。

人間も色々です。人付き合いの上手な人下手な人、異性にモテる人モテない人、気の強い人弱い人、色々です。色々いるから大変です。だけどメゲナイで下さい。自分を卑下したり卑怯な振る舞いをしないで下さい。しかし、こんな話では解決しませんから・・・。

もう時間がありません。辛抱できない、解決できない方、お寺へおいで下さい。お待ちしております。

私と仏様のカーナビゲーション

宗久寺 住職 松本 広英 師

最近は、カーナビゲーションの付いた自動車が増えてきました。目的地を設定すれば音声と地図で分かりやすく道案内をしてくれます。道を間違えても修正して目的地に向って案内をしてくれます。便利になりありがたいことです。しかし、いくら便利になってもハンドルを握り運転するのが自分自身であることは変わりません。カーナビゲーションの適切な案内と自分が安全運転をすることで確実に目的地に到着をすることができます。私たちの人生にもナビゲーションがあると安心できると思いませんか。

お釈迦さまは、「自灯明 法灯明」とおっしゃっています。「自分を拠りどころとして生きよ。仏さまの教えを拠りどころとして生きよ。」ということです。人生を一歩一歩あゆんでゆくのは自分自身です。時には迷ったり悩んだりすることもあるかもしれません。そんな時には、仏さまの教え拠りどころとすることで心が安らぎ、正しい方向に向って進んでゆくことができるのでしょう。

新年度を迎え新たに一歩を踏み出した方も多いと思います。沢山の人とのよき出会いも、また法灯明なることでしょう。

変わらぬ思い

岐阜市 木造町 勝林寺住職 副所長 等 真一

平成23年3月11日、東北地方に発生した東日本大震災から今年で丸6年が過ぎました。年忌法要で言います所の七回忌をむかえられ、ご遺族、関係者の方々それぞれが特別の思いでご供養をお勤めいただいたことと思います。今だに二千五百有余名の方の行方が不明とのことで、一日も早くの発見をお祈りするとともに、犠牲になりお亡くなりになられました御方に改めて哀悼の意を捧げたいと思います。

又、平成7年1月17日兵庫県南部を中心に発生した阪神淡路大震災から今年で丸22年、二十三回忌の年忌法要の年となります。こちらのご遺族の方々も又特別な思い出今年の震災の日を迎えられたことと思います。

今年の1月17日阪神淡路大震災の発生した日のテレビのニュースで、震災の時に1歳のお孫さんを亡くされたご婦人のお話が大変心に残りました。「亡くなった当時は孫のために毎日ミルクをお供えして供養をしておりました。あれから22年の月日が過ぎ今はビールをお供えして供養をしております。」と涙ながらに答えてみえました。22年と言う長い年月、お孫さんに対して一日たりとも変わらぬ思いでご供養えお続け共に成長されてこられたのが伝わる心に残るお言葉でした。

「供養」という字を思い浮かべていただきますと、「供」は供えると書きます。「養」は養うと書きます。ご先祖様を「供養」するということは「供え」「養い」ご先祖様と共に成長させていただくということではないでしょうか。

先程の震災でお孫さんを亡くされた方のお話は、一日一日、22年間お孫さんに寄り添い、思いをはせて「供え」「養う」という本当の意味での「ご供養」を続けてこられ、その長い月日の中で、ご本人もいろいろな意味で成長をされてこられたことと思います。

「供養」とは日々のお勤めや、ご法事を勤めいただくだけでなく、ご先祖様を供え養うことによって供養させていただけることに感謝をして、成長させてもらえると思い感じることが大切なのではないでしょうか。

お彼岸のこの時期に、お墓参りやお仏壇にお参りされるときに、ご先祖様に感謝の気持ちと変わらぬ思いで手を合わせたいものです。 合掌

向き合う

高山市 大幢寺 住職 金岡 正徹

皆さんは「死」をどのようにお考えですか?「そんなこと急に言われても…」とおしゃるでしょう。日常生活で、人の「死」と向き合う機会は、ほとんどありません。職業によっては関わりの深い方もおみえですが、一般的には、お身内でご不孝があった。知り合いのお葬式に参列したときなどに「死」について考える程度ではないでしょうか?

生を明らめ、死を明らめるは、仏家一大事の因縁なり…これは、曹洞宗で読まれる「修証儀」のお経の最初の一節です。生きること、死を迎えることを明らかにすることが仏教徒としての根本であり、生まれてから最後を迎える時まで悩み苦しむ事である…と続きます。

死は突然やってくるから恐ろしいものと捉えがちですが、一か月後にあなたは死を迎えるとしたら・・・。あれもしたい、これもしたい…と恐ろしいどころか、頭の中を「欲」が支配することでしょう。

いつ訪れるか分からないから考えない。

また、生活に追われ考える余裕もない。

しかし、男性、女性、身分や若いとか、年だからに関係なく必ず、死は訪れるのです。

我々は、両親から尊い命を頂きました。

お釈迦様は、父母の恩の重き事、まさに天に限りがないのと同じである。と説いています。

父母の恩は山よりも高く、海よりも深いのです。

今日、一日を大切に過ごし、ごまかしのない生活、生かされていることに感謝する生活をすることでゆとりが生まれ、悔いのない人生を送ることができるのです。

お彼岸のこの時期にご先祖様に感謝し、死や命について考えてみると良いかもしれません。

合掌