関市 寿福寺 住職 大石 啓二
私が小学校5年生・昭和34年11月2日のことです。授業中に先生から家に帰りなさいと言われ、家に帰ると、母が布団に包まれている姿を見た。母の死であった。母は今で言う咽頭がんで心臓も弱く一年のうち半年は病院、週一日は病院という生活でした。が、優しい人でした。
私の生れた家は、兄が4人、姉が2人という7人兄弟。私はその一番下でした。父は僧侶で、また中学校の教師を勤めており、酒が大好きな人でした。
母の通夜や葬儀の時、近所の人や檀家の方々から可哀そうに可哀そうにと言われるのが嫌でたまりませんでした。この悲しみは本人でなければ分からないと思ったので、私はたやすく他人の悲しみに同情はしません。言い過ぎかもしれませんが・・・。また、母の死が夢であってほしいと思い、自分の頬を叩き強くつねったりもしましたが夢ではなかった。現実なのだと実感しました。
母の死から5年後、昭和39年オリンピックの年に父が私の目の前で突然倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。父の死のその場で私は7歳上の兄に、「僕は坊さんになりたい」と言ってしまったのです。なんでそんなことを口に出したのか覚えてはいません。が、兄は快く「よし、わかった」と言って下さり、お金の事その他いろんな面で迷惑を掛けました。
時が経ち一番上の兄、三番目の兄と亡くなりましたが、私を大学まで行かせてくれた兄の死は、父母の死とは違った思いがありました。兄には亡くなるまで色々な苦しい事、結婚の事、その他色んなことを相談してきましたが、相談する相手が突然亡くなり漠然となりました。親代わりや師匠になって頂いたこと有難く言葉では言い尽くせません。また姉2人と仲が良く、特に迷惑を掛けることもなく暮らしていることに感謝しています。
人間関係の難しい時代です。が、父母兄弟らの死の事を思い起こせば「無事であることの幸せ」と思う今日この頃です。