大垣市 全昌寺 住職 不破 英明 師
住職になり一年目のことでした。遠方の檀家様がお亡くなりになり、早速駆けつけた私は枕経の後、故人様の奥様からお話を伺っていました。その中に強く印象に残るお話がありました。亡くなられたご主人は生前、通る道すがらお地蔵さまがいらっしゃると必ず立ち止まり、掌を合わせて般若心経を読まれたとのことでした。奥様が「急いでいるから早く行きましょう」あるいは「人が見ているから早く行きましょう」と声を掛けてもお経を読み終えるまで動かず、お地蔵様を拝んでおられたそうです。最初はお地蔵様の近所の方々も訝しげに見られていたそうですがしかし、信念を貫き只管お経を読み掌を合わせておられる御主人の姿を見て、次第に「有難うございます」と声をかけられるようになったとのことでした。
このお話を聞かせていただいて思い出されたのが中国唐の時代、洞山良价禅師様が示された「寳鏡三昧」というお経です。その寳鏡三昧に「潜行密用は愚の如く魯の如し、只能く相続するを主中の主と名づく」という一節があります。『人知れずとも行う綿密な行持は、愚かなものの如く平々凡々に見えるがそれでよい。それを続けることが大切であり尊い真の生き方である』という意味です。奥様から御主人のお話を聞いてゆくなかで、「こういうことを真に実践しておられたのだ。立派な方でいらっしゃったのだ」と深い尊敬の念を以てあらためてお顔を拝ませていただきました。奥様を通じて私に教えていただいたことを大切にし、これから住職を勤めてまいりますと心の中で念じ、ご葬儀を執り行いました。
誰しもがやらねばならないと信ずることがあります。しかしそのことを続けてゆこうとすると色々な差し障りが出てきます。先ほどの他人の目というのもその一つでしょう。そうした「差し障り」というのは自身の外側にあるようにみえて実は多くの場合自分自身が生み出した妄想でありそれが自らの願いを妨げているのです。何をも自らをとどめるものはないのだと自分自身を奮い立たせ解き放つことで、はじめて信ずることを行い続け真の人間としての生き方に近づくことができるのです。愚の如く魯の如し、愚かなことをと言われても、信ずることを行い続けるこの心を以て、皆様の普段の生活のどんな些細な事柄にも光をあてていただければと思います。ご清聴有難うございました。