高山市丹生川町 正宗寺 東堂 原田道一 老師
念ずれば花ひらく 苦しいとき 母がいつも 口にしていた このことばを
わたしもいつのころからか となえるようになった
そうして そのたび わたしの花が ふしぎと ひとつひとつ ひらいていった
私がこの言葉に出会い、この詩を書かれた坂村真民さんにお会いしたのは、今から五十年も前のことです。
高校教師をしていた私は、三十歳を過ぎた頃に人間関係のもつれや宗教上の悩みなどから、失意のどん底にありました。さらにメニェール氏病を発病し、いよいよ入院という時にふと、「坂村真民」の名が頭をよぎったのです。
返事はまったく期待せず「これから入院します」という手紙をタンポポ堂に出しました。
すると、入院中の私に真民さんからハガキが届いたのです。
一読して「この人だ」という直感とともに、真っ暗な心に一条の光がさっーと差し込んできました。
それから文通が始まり、ある時、私のことを「ポェジー」があると褒めてくださいました。
真民さんは「万法のもとは詩である」と常々語っておられたので、認めていただいたようで本当に嬉しく思いました。
居ても立ってもいられない思いで、友人と四国のタンポポ堂を訪ねたのは、昭和43年頃、突然の訪問にもかかわらず歓迎していただき、奥様が大きなおむすびを出して下さいました。
《むすびあう、にぎりあう》心が込められたおむすびのおいしさは忘れられません。
昭和46年の秋、当寺私が住職をしていた神岡の正眼寺を真民さんは訪ねて下さいました。
当寺本堂の改築中で、蓆の上に布団を敷くというありさまでしたが、真民さんは『水の音がして、蛙が水に飛び込むような寺が一番いい』と大層喜んで詩《この世の花》を書いてくださいました。
この世の花
念願だった朴餅
朴みそ
朴のおにぎりを
食べさせてもらい
朴との縁が
いよいよ深くなった
台風19号のかぜのなかで
飛騨山中の朴の群れが
葉裏を花のように光らせ
その存在を示してくれたことを
わたしは忘れない
朴よ
人の世を幸せにする
この世の花であれ