努力とひらめき

可児市 薬師寺   住職 丹治大輔 師

エジソンの有名な言葉で「天才とは1パーセントのひらめきと99パーセントの努力である」という有名な言葉があります。

知らない人はいないというほど有名な言葉ですが、実はこの言葉、記者がエジソンの言葉を間違って解釈してしまった誤った言葉だったということをご存知でしょうか。

本当は「1パーセントのひらめきがなければ99パーセントの努力は無駄になる」といったことをエジソンは言いたかったようです。エジソンとは努力の人であるといった印象がほとんどの人の中にあると思うんですが、本当はひらめきこそがとても重要なものである、といった考え方を持っていた人だったようです。

実は仏教にも似たような話、ひらめきこそが重要なものであるといった話が存在するんです。それはお釈迦様がお悟りなられたときのお話です。お釈迦様は6年間の苦行をした、と言われています。ですが、どれだけ苦行を積み重ねても精神はかきむしられるだけでこのまま苦行を続けていても悟ることは出来ない、と気付き今まで積み重ねてきた努力、すなわち苦行を捨てなければならない、ということをひらめいたんです。お釈迦様は苦行を繰り返しても6年間悟ることができなかったのですが、この苦行を捨てるというひらめきによってわずか1週間ほどの坐禅で悟ることができたのです。

お釈迦様の生きていた時代というのは悟るためには苦行をするというのは当たり前の常識だったので、お釈迦様が苦行を捨てたという話は今となっては仏教の有名な話、一般常識の話なのですが、お釈迦様の古代インド時代においてはかなり斬新なひらめきだったと思うんです。

曹洞宗の修行道場では蠟八摂心といってこのお釈迦様が悟られたことを追慕して12月1日から8日までの間ほぼ一日坐禅を行います。私も修行中にこの蠟八摂心をやったのですが、この間にお釈迦様と同じように悟れるか?と聞かれると悟れないんです。私はこのお釈迦様のこのお悟りの話でいつも考えていたことはお釈迦様が最終的には捨てた苦行というサイクルもお釈迦様にとって必要なことだったのではないか、ということです。お釈迦様の積み上げてきた努力、すなわち苦行があったからこそ努力を捨てる、すなわち苦行を捨てるというひらめきが生まれ、わずか1週間ほどという短期間で悟りにまで至ったのだと。

ではエジソンは努力の人ではなくひらめきの人だったのかというと私は努力の人だったと思うんです。エジソンの名言をいろいろと読んでみるとすごく努力をしたくなってきます。エジソンは努力の人だった。努力の人であったからこそここにたどり着いた、ひらめきというものがいかに重要なものであるのかを。

ではなぜひらめきが生まれるのかということを考えてみると私は執着を捨てるということだと思うんです。お釈迦様のお悟りの話には悟るためには苦行が絶対に必要だという固定概念、執着を捨てた、とも解釈できる。我々は様々な固定概念というものを持っている。固定概念というものは執着ともなり、我々はその執着の海の中にいれば水の中にいる魚達が自分たちは水の中にいるのだ、と気づかないように我々はそれが執着である、固定概念であるとは気づかない。この海の中から脱出するためには必要なのは努力である、と我々はそう思ってしまうのですが、エジソンはただ努力するだけではだめだ、ひらめけ、と言う。そのエジソンの言うひらめきというものが、努力に努力を積み重ねた上に生まれるものなのかもしれない、あるいはお釈迦様のお悟りの時の話のように苦行を捨てた、努力を捨てた先にあるのかもしれない、努力は裏切らないと言いますが、努力を捨てたとしてもその努力は裏切らない、そうお釈迦様はこの苦行というサイクル、努力を積んできたからこそ1週間で悟りを得ることができた。

「天才とは1パーセントのひらめきと99パーセントの努力である。」この言葉は記者がエジソンの言葉を間違えて解釈してしまった間違った言葉だったのかもしれません。ですが私はこの言葉は正しい言葉、真理だと思っています。努力は報われる、しかし努力とさらに見方の角度を変えることも必要なんだ、執着を捨てる、すなわちひらめきというものも必要なんだ、ということをエジソンは言いたかったのではないかと思います。