立蔵寺 伊藤 智純
今回の法話の当番をいただきまして、30年ほど前のテレホン法話集というものが書棚にありましたので、さて諸先輩方はどんなお話をされたのかと興味をひかれて読み進めておりました。3・40年前どんな時代だったんでしょう。どんなことがあったのかよく覚えていませんが、そこには海外の戦争に怒り、未成年による殺人を嘆き、自分中心、利己的な事件を諌めるそんな文章が並んでいます。
今、私がお話しようとしてもやはりテロが続く不安定な世界、未成年による重大犯罪、インターネットを通じてしばしば話題になる身勝手でわがままな人達、そんなことを話題にすることになりそうです。もっともわずか30年ではそんなに変わらないのも当然かもしれません。では800年前3000年前ではどうだったでしょう。当時の人々にとっても争いの絶えない世の中、自分大事で、他人を木津つけることを顧みない人々。そういったことに心を痛めた人達がいたに違いないと思うのです。古今東西を問わず、人はそうした社会の有り様を通じて、いかに生きるべきか、生とは何か、死とは何か、考え続けてきたのだと思います。
少年時代の道元禅師やブッダとなられる前の青年シッダールタ王子、私たちと同様に悩み考えそしてその答えをお示しくださいました。先人の声に耳を傾けましょう。本を読みましょう。話を聞きましょう。生きるヒントがきっとあると思います。
最後に最近、心に残った言葉を紹介いたします。長い間、私の人生はまだこれからだと思っていた。やりかけの仕事、返すべき借金、果たすべき義務。それらを片付けてからが本当の人生だ。ある日気づきました。そうじゃない。そんな邪魔者こそが私の人生そのものなんだ。そして私は知りました。幸せへの道などない。道こそが幸せなのだと。幸せは旅の過程であって、目的地ではないのです。アルフレッドスーザンという、神父さんの詩だそうです。