仏様の方から『私たちが見られる』

恵那市 長國寺副住職 小島現由 師

仏像は、私たちが一方的に拝む対象のように思われがちですが、仏様の方から『私たちが見られる』ということも大切です。

鎌倉時代に活躍した仏師運慶は、奈良市東大寺にある『金剛力士像』をはじめとし、数々の力強い仏像で知られています。実はその他にも、生身の人間のような、写実的な作品も多く残されています。

写実性を高めるために運慶が用いたのは、『玉眼』という手法です。玉眼とは、仏像の眼球の部分をくりぬき、内側から水晶を当てて瞳を描く手法をいいます。この技術によって、眼球部分は光を反射し、潤んだ瞳を表現出来るようになったそうです。

先日、奈良市の興福寺に安置されている運慶作の仏像、無著菩薩像を拝む機会がありました。木製部分の顔や胴体は、制作後およそ800年の時を経て、残念ながら傷んでいましたが、水晶でできているその眼は、生きている眼球そのものの生々しさがありました。そのお姿は、こちらから拝むというよりも寧ろ、『お前の生き方はそれでいいのか』と強く諭されているようでした。

永平寺を開かれた道元禅師様は、『学道用心集』という著書において、『試みに心を静めて観察せよ。この心行は仏法に為えるや、仏法に非けるやと。恥ずべし、恥ずべし。聖眼の照らしたまう所なることを。』とお示し下さいました。

つまり、「心を落ち着けて自分自身をよく見てみなさい。自分の行いは仏様の教えにかなっているか、反していないか。反していたら恥ずかしいと思いなさい。仏様は見ていますよ。」ということです。

私たちには、お釈迦様の他にも、ご先祖様をはじめとする沢山の仏様がいらっしゃいます。お釈迦様の願い、ご先祖様の願いに照らし合わせて、自分の生き方を見つめてみる。その姿勢を続けることが、今生かされている御恩に報いることになるのです。